<北信越>

(新潟県)
 
新潟明訓(私・新潟市) 春1回 夏3回 

 平成11(1999)年夏、甲子園に出場した新潟明訓の阪長は大阪出身であるが同校での他都道府県からの入部は珍しい。阪長も甲子園で明訓の活躍をみて進学した。平成3(1991)年夏甲子園初出場の時のエース小林幹英(専大−広島)は新潟市出身。


(富山県)情報募集
 
高岡第一(私・高岡市) 春1回 夏1回
 
 敦賀気比の辞退により平成12(2000)年選抜に出場。メンバーはエース島崎ら7人が県外(福井、京都、大阪)出身。プロ入りした田畑(北陸銀行−田畑建工−ダイエー−ヤクルト−大阪近鉄−讀賣)、吉田(阪神)、瀬島(日本ハム)らは県内出身。

不二越工(私・富山市)も県外出身者が多いらしい。


(石川県)

星稜(私・金沢市) 春10回 夏14回
 
  県外選手は近県から数名程度、松井秀喜(讀賣−NY)と同じ代にはPL中出身の北村、彦根市出身の宮川が居た。ただPL中に関しては府外から進学しても地元の高校に進学することも有るようだ。プロ入りしたOBでは湯上谷ьu(南海、ダイエー)は富山県黒部市出身。鈴木望(駒大ー巨人ー日ハム)は東京より進学。小松辰雄(元中日)、村田勝喜(南海、ダイエーー西武ー中日ー引退)、村松有人(ダイエー)、松井らは県内出身。

遊学館(私・金沢市) 春1回 夏2回

 


(福井県)

敦賀気比(私・敦賀市) 春1回 夏4回
 
  昭和61(1986)年に創立、「鯖江ボーイズ」を指揮していた渡辺前監督が就任してから県内外から硬式経験者が集まり平成6(1994)年夏レギュラー7人が2年生で甲子園初出場を果たした。  平成7(1995)年夏には内藤剛志(福井県出身=駒大ーJR東海)、飯田雅司(京都市伏見区=千葉ロッテー引退)を中心にベスト4に進出しその名を全国に知らしめた。平成9(1997)年夏には三上真司(京都府城陽市=ヤクルト)、の吉岡敬(京都府から手続き上のミスで気比中学へ)、金岡哲男(福井県出身=駒大)、東出輝裕(鯖江市=広島)らでベスト8へ進出。平成10(1998)年選抜出場後不祥事で渡辺監督が辞任し林監督が就任、夏は甲子園初戦敗退。平成11(1999)年の秋季北信越大会を制したが部員の不祥事で選抜は出場辞退した。
 京都田辺ボーイズのルートもあったが渡辺監督辞任で今後は微妙。年々福井県出身者が少なくなってきている。平成11(1999)年秋北信越大会を制した時のエース内海(東京ガス−讀賣)は京都府、李(讀賣)は大阪府出身。中日入りした仲澤は県内出身。


福井(私・福井市) 春3
回 夏6回 
 
  昭和57(1982)年夏出場時のエース前田康伺(旧名耕司=阪神ー西武ー広島ーオリックス)は広島市出身。平成3年夏の出場時にはほとんどが福井県出身で兵庫県からの進学が2名。


(長野県)

松商学園(私・松本市) 春15回 夏32回
 
  全国で2番目の選手権32回出場を誇る古豪。長野県全域から有力選手が進学してくるが田中健太郎(讀賣=埼玉県坂戸市)、辻竜太郎(明大−ヤマハ=大阪府)の様に県外出身者も年に数名いる。平成12(2000)年選手権出場時には栃木、神奈川、新潟、兵庫、岐阜出身者がいた。


武蔵工大二(塩尻市) 甲子園未出場

 武蔵工大信州工から改名。小池秀郎(亜大−ロッテ拒否−松下電器−近鉄−中日)は岐阜県羽島市出身。全国レベルの大会に出場したことが無く詳細は不明だが部員は結構多いようである。平成12(2000)年亜大主将の米山学も同校出身。


塚原青雲(私・松本市) 夏3回

 1960年代は約1400人の生徒がいたが徐々に減少し、平成11(1999)年には生徒募集停止が検討された。平成13(2001)年夏、部員17人で甲子園出場。同年秋は部員不足で出場辞退したが甲子園での活躍を見て選手が集まり、平成16年(2004)年夏にも甲子園出場。全校生徒52人に対して野球部員は44人と大部分を占める。関西・東海出身者が多いがエース・岩下、4番西沢ら長野出身者もレギュラー獲得していた。

上田西(私・上田市) 甲子園未出場

 

 

  

野球留学へ 北海道 東北 関東・東京 東海 近畿 中国 四国 九州 カチワリ甲子園

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送